コード・レッド　作：はにわ改

　
ーー透矢・神楽坂姉妹ら一行が『黒の一団』と戦いを繰り広げている最中、
世界大会の舞台となる会場は不気味な静寂に包まれていた。
泥のように眠りこける観客、関係者たち。
まるで死の世界であるが如く、そこに動く者は一人としていない。
世界大会の様子は全国にあらゆるメディアを通じて配信されているものの、今は予め用意されていた代わりの番組に差し替えられている。
また現在、会場の出入口はクロエの『機関』に属するメンバーが封鎖しており、立ち入る事は出来ない。
全てはクロエが事前に行った根回しに従って事は進んでいるのだ。


ーー会場、控え室。
そこにいる各アカデミアの生徒や教諭、また関係者たちもやはり深い眠りに落ちていた。
彼らはアラスカ・アカデミアこと、『黒の一団』が放った煙幕を浴びたからではなく、シェリルを始めとした機関の人間によって『黙らされた』。

ーーだが、ただ１人。
有無を言わさぬ沈黙より解き放たれた者。

透矢たち日本校に既に敗退したイギリス・アカデミア。
その代表にして、大将格。

ーーエリザベート・フリードイッヒ。

控え室のテーブルに突っ伏すようにしていた彼女は、
不意に目を開いて身体を起こすと、首筋に手を遣り『それ』を引き抜く。

「ふ……こんなもので私を眠らせようだなんて」

小さな注射針のような尖端。
強力な麻酔薬が塗られており、これを刺された者は即座に昏倒してしまう。
彼女の周りにいる仲間がそうであるように。
だがエリザベートだけは何故かそれが全く作用せず、『敢えて昏倒した振り』をした上で、頃合いや良しと起き上がったのだ。

「何か、トラブルが起きたというのは聞いてたけどーー『機関』の方々も大それた事をなさいますのね」

眠る仲間を一瞥した後、エリザベートはおもむろに部屋から足を踏み出させる。

ーーそうしてやって来たのは会場。
デュエル・リングには誰もおらず、観客席には眠らされた観客たち。
本来なら日本とアラスカのアカデミアが２回戦を行っているはずの今。

「ーー無駄ですわ」

会場中央のデュエル・リングに向かって歩く足を、突然止めたエリザベートがそう呟いた。
それは背後からそっと近付いていた、迷彩服を着込むサングラスを掛けた何者か。
その手には小さな銃が握られ、エリザベートの背中を狙っている。

「私に麻酔弾など通じませんわ。
弾の無駄遣いでしてよ」

背後のその人物に振り向く事なく、そう言い放つエリザベート。
するとその言葉に従ったのか、あるいは元から知っていたのか、
その人物は静かに銃を下ろした。

「ーークロエ先生、それともクリス先生のお付きの方かしら？」

「……いえ、私は神楽坂家の侍女、桔梗と申す者です」

「ああ、なるほど。
刹那さんのお付きの方でしたか」

エリザベートに尋ねられて、率直にそう答えたその人物・桔梗。
エリザベートは特に驚いた様子はなく、何度か頷く。

「申し訳ございません、フリードイッヒ卿。
事情も申し上げず無礼なる振る舞いをーー」

「あら、そんなにかしこまらなくてもよろしいですわ。

それよりも、皆さまは今どちらに？」

「『闇の一団』を追って行かれました」

「神楽坂のご姉妹も？」

「はい」

「クロエ・クリス両先生方に加えて、神楽坂ご姉妹……錚々たる面々ですこと」

小さく笑うエリザベート。
その唇からは八重歯のように、犬歯を覗かせている。

「事が済むまで今しばらくの時を要するかと存じます。
恐れ入りますが、それまでは卿にあられましても御辛抱の程を……」

「分かっていますわ。

あと、もうひとつ。
トーヤは大丈夫なんですの？」

「遊戦名、様……ですか」

そう訊かれて、表情を曇らせる桔梗。

「遊戦名様も……お嬢様方と共にーー」

「トーヤも、ですの？
でも彼はまだ『そういうこと』には不慣れなはずでは？」

「それが……刹那お嬢様が何らかのご意志でお連れしたとかーー」

「ふぅん……？」

ふと空を見上げるエリザベート。
するとすぐにその表情が笑みに変わる。

「キキョウ、様でしたわね。
申し訳ないですが、前言を撤回致します」

「は……？」

「彼に、万が一の事があっては大変ですもの。

私も……現地に参りましょう」

「フリードイッヒ卿……！」

エリザベートが不意に左手を大きく振りながら、同時に身体を翻した。
すると瞬間的に突風が起き、桔梗が両腕で身体を庇うようにして耐える。
そして次にエリザベートを見た時、彼女は制服姿から、礼装である肩の開いた丈の短い黒のドレスを着込み、その上から真紅のマントを全身に羽織った姿に切り替わっていた。

「ーーそれでは、ごきげんよう」

一言、そう言い残し、一足で飛び上がると、その身体は鳥のように宙に浮く。
そしてその姿は無数の蝙蝠へと姿を変え、一斉に彼方へと向かって飛び去った。

ーー現実離れしたその光景。

桔梗にはただそれを見送る事しか出来ず、その後ろ姿に向かって深々と一礼した。








ーー現地。
『黒の一団』の本拠である使われていない下水道。

「ーーお粗末でございました」

ーー蓮華が頭を下げる。
その前には倒れた『黒の一団』たち。
刹那たちを先に行かせるべく、たった一人で殿を務めた蓮華。
彼女は無傷、息も切らさぬ様で迫りくる一団を壊滅させた。
刹那が気を許し、最大の信頼を寄せる蓮華がその名目を見事示して見せたのだ。

「ーー更科殿！」

「ーーマナセリア様」

そこへ駆け付けてきたのはクロエ。
更にその後からクリス、シェリル、そして救出に成功した舞が続々と合流する。

「皆さま、ご無事で何よりにございます」

「更科殿も、大事ないか！」

「お気遣いは御無用です。
私の存在意義は、このためにこそあれば……」

蓮華が答えるとクロエが頷く。
するとその後ろから舞が踏み出す。

「更科サン、刹那は！久遠は！？」

「お嬢様は水花様を助けるべく、先にお進みになられました」

「何だって……っ！
おいおい、まずいよこりゃ」

尋常ならざる表情の舞。
しかも蓮華のその答えを聞いて、舞は思わず爪を噛んだ。
だが蓮華にはそれの意味なすところが伝わってはいない。

「ーーこうしてはおれん。
我々も先を急がなければ！」

クリスも舞と同じ表情。
それを見て、さすがの蓮華も察せずにはいられない。
よもや刹那・久遠に何らかの危機が及んでいるのではないか、と。
そして反射的に彼女は先んじて、刹那たちの軌跡を追うべく、颯爽と足を踏み出させたのだった。

「ーー我々も行くぞ、クロエ！」

クリス、シェリル、舞が更にその後を追う。
だがクロエだけはすぐに前に出ず、懐の携帯端末を取り出した。

「ーー将軍。
最早猶予はなりません。
直ちに『コード・レッド』の発動を」

『それは構わんが……君たちは大丈夫なのかね』

「ご心配なく。
私どもは『ログアウト』すれば、脱出可能であります。
既にその手筈は……抜かりなく」

『ーー分かった。
間もなく現地に部隊が到着するはずだ』

「構いません。
到着次第、作戦遂行の御命令を」

『全く……こんな手段を借りねばならんとはーーこれは君の手落ちだぞ、マナセリア君』

「承知しております」

『将軍』と会話を経て、クロエの仕込みである『保険』が発動する。
クリスにも知らされていないその『保険』は、正に手段を選ばぬ窮余の為の策だったのだーー。