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HOME > 遊戯王SS一覧 > Report#92「募る心労」

Report#92「募る心労」 作:ランペル

 ワルトナーとのデュエルを通じて無事和解を果たした梨沙。デュエル決着のアナウンスにほっと胸を撫で下ろし、視線を元に戻す。すると、デッキを片付けたワルトナーがどこか気まずそうにソワソワしているのだ。

「ミアちゃん?どうしたの?」

「……お姉さん…ケガ…してる…でしょ?」

 彼女が気にしていたのは、デュエルを経て深手を負った梨沙の事であった。元々、梨沙を殺すつもりで臨んでいたデュエルであっただけに、和解した今、深手を負わせた事に気まずさを覚えるのも無理のない事だろう。

「あ、あぁこれね」

 梨沙は自らの足へ視線を下ろす。そこには、足首が別方向を向いたまま、膝下から骨が肉を突き破るという到底立ってなどいられないはずの左足があった。酷く痛々しいが、見た目に反して痛みのないその足は、どこか現実味が薄く、まるで映像の中の誰かの足を見ているような錯覚さえ覚えた。しかし、左足に痛みはなくとも感覚は残っており、左足では自らの体重を支え切る事が出来ないと理解している梨沙は、右足に重心を寄せる事で何とかその場に立っているのだ。

「痛く…ないって…言ってた…けど……」

「ミアちゃんからしたら複雑だよね……。私的にも痛くないとは言え、さすがに見た目がヤバすぎるかな。
とと……」

 そう言いながら、梨沙はその場へゆっくりと座ろうとする。ふらついた事で少々倒れ込む様な形にはなったが、何とか安静な状態へと移行した。

「よくよく考えたら、こんなに痛々しいのに平然としてるの怖かったよね……ミアちゃんごめんね?」

 重傷を他所にワルトナーを気遣う梨沙の様子は、客観的には異質ですらあった。本人はそのことにすら気づかず、ただ申し訳なさそうに謝る。その時、梨沙が小さく咳き込む。

「ゲホッ……」

 小さな粘液性を伴った口内に溢れたものを喉に詰まらせ、それを吐き出した梨沙。
 それは、赤黒い血の塊だった――

「あれ……」

「梨沙さん……!」

 吐血した梨沙の元へ声を上げながら駆け寄ってくるのは、焦り顔の河原だ。

「河原さん?」

 走ってくる河原の意図が分からない様に、首を傾げる梨沙。そんな彼女の前に滑り込むように駆け込んできた河原は、梨沙の装着するデュエルディスクを掴み捲し立てる。

「あれだけの高さから落ちたんですよ!?痛みがなくとも、足以外にもダメージを負っている可能性が高いです。早く《人体スキャン》を使って調べてください!」

「……そ、そうですね」
 
 そう急かしてくる河原に気圧される様に、梨沙は自らのデュエルディスクを操作していく。《人体スキャン》を実行し、ディスクより照射され始めた光。それを自らの頭から足先に向けてゆっくりと当てていく。

「あなた…誰……?」

 いつの間にか、ワルトナーが河原の元まで近づいてきており、彼に向かって静かに問いかけていた。その声に河原は肩を震わせ小さく驚く。声のする方へ振り返ると、盲目の少女は既にデュエルディスクを構えていた。

「あ、ミアちゃん――

 口を挟もうとする梨沙に向けて手を翳し静止すふ河原。それを受け、梨沙は小さく微笑むと実行中の《人体スキャン》へと意識を戻す。
 河原はワルトナーが聞き取れる様に、彼女の目の前でしゃがみ込み、ゆっくり話し始めた。

「こんにちは、ワルトナーさん。私は河原と言います。こちらの梨沙さんと一緒に、お父様からお話を聞かせて貰おうとここへ来ました」

「お姉さん…と…一緒に……」

 その言葉にワルトナーが小さく訝しむ。それを察した河原が、言葉を続ける。

「梨沙さんがデュエルをしている間、私はお父様の看病をお願いされていました。ですから、今の今まで姿を見せなかったんです」

「お父様…の……」

 父親の事が話題に上がり、ワルトナーの所作に明らかな動揺が紛れ込む。

「はい、ワルトナーさんの手当ての甲斐もあってお父様は命に別状はありませんよ。今はまだ眠られていますがね」

「……!」

 跳ねるように小さく身体を震わせたワルトナー。すぐにでも父親の元へ走っていきそうな彼女だったが、足先の向く先がフロアの奥と梨沙達の方とを右往左往している。その様子から、父親の元へ向かうのを躊躇している様だった。
 恐らく、デュエルによって梨沙へ重傷を与えてしまった事を気にしているのだろう。……あるいは、父親と和解する為に梨沙にも話し合いについてきて欲しいのかもしれないが。そんな彼女の思考を梨沙が察して、ワルトナーに声を掛ける。

「行ってあげて、ミアちゃん。私の事は気にしなくてもいいからさ」

「ほん…と……?」

「うん!河原さんも来てくれたからね。今度はミアちゃんがお父さんの傍に居てあげて。お父さんが目を覚ましたら、私もすぐ行くからね」

「…………分かった」

 ほんの少しだけ考えを巡らせようとしたワルトナー。しかし、父親の元へ向かいたい思いが遥かに上回ったのか、すぐに頷き梨沙達へ背を向ける。
 
「左の一番手前の部屋の扉を開けて少しした所に、お父様が居られます。場所は……分かりますか?」

「大丈夫。お姉さんを…助けて…あげてね……」

 そう呟いてワルトナーは、2人に見送られ早歩きで父親の眠る部屋の方へと歩いて行った。そのタイミングで、スキャンを終えた梨沙のデュエルディスクに診断結果が表示された。そこに羅列される文字の多さに梨沙は、困ったように小さく笑った。

「あはは……なんかすごい一杯出てきましたね」

 河原が梨沙のデュエルディスクをすぐさま覗き込む。驚きと共に険しい表情になっていく河原は、それらを言葉に落とし込む。

「粉砕骨折……!?それに、肋骨が内臓に刺さってる可能性まで……。
とにかく、表示されてる薬にギプス、後はバンドですか?これらで間に合わせますよ。ここに表示されていると言うことは、これらの処置さえしておけば死んでしまう事はないはずです……!」

 焦りを滲ませる河原に反して、梨沙の表情はどうにもぽかんとした苦笑いを浮かべていた。
 河原がディスクの画面をタップし、表示された薬剤や治療器具の一式がフロアの壁より供給される。道具一式を持ち寄った河原は、梨沙へ薬剤を手渡し、そのまま梨沙の左足をギプスでゆっくりと固定していく作業に入った。

「止血と内部の傷の自然治癒力を上げる薬みたいです。私は足を固定していくので、まずはその薬を飲んでいてください」

「死にかけてるのに、全然痛くないんです……。不思議、ですよね」

 手に乗せられた薬剤を眺めながら……ふと、梨沙がそう呟いた。憂いを帯びたその声に、河原は顔を持ち上げ梨沙の顔を一瞥する。そして、すぐさま視線を戻し作業に戻っていく。

「前向きに考えていきましょう。その不思議さのお陰で、彼女とのデュエルをやり切れたんですよ」

「じゃぁ、なんで――

 咄嗟に言いかけた言葉を、梨沙はそれ以上吐き出すことなく無理やり口を噤んだ。はっとした様に顔を上げた河原に、梨沙は口元で笑みを作り上げて応じる。

「ごめんなさい。なんでもないんです」

 そう言いながら手の上に乗った薬剤を口に含み、用意された水で流し込んでいく。
 河原は何度目となる己の無力さを悔やむと共に恥じた。彼女が苦しんでいるのは、砕け散った足の骨ではなく、その痛みさえ感じられなくなっている心そのものだという事に何故気づけないのか。

「……仰ってください。梨沙さんが苦しんでいる事を吐き出すだけでも少しは違うかもしれません」

「え?いやいや、なんでもないですって」

 薄笑いと共に手を振る梨沙に、河原は尚も続ける。

「これだけの傷を負っても痛みがないというのは……やはり梨沙さんの精神的にも負担が大きいのではないでしょうか?」
 
「確かに、痛くないのは不思議な感じですけど、河原さんの言ったように痛くないからこそ、デュエルに集中してミアちゃんとも和解出来たんですから」

 冗談でも言うように薄っすらと笑みを浮かべたまま喋る梨沙。しかし、梨沙が再び河原を見れば、真剣な眼差しで梨沙を見つめる彼の姿があった。

「私は本当に無力です。梨沙さんがワルトナーさんとデュエルを始めた時も、何もできませんでした」

「……仕方ないですよ。河原さんはそもそもデュエルが出来ないんですから」

「分かっています。デュエルの出来ない私が出て行った所で、事態が悪化する可能性の方が高かったでしょう。結果として、私がお父様と一緒に居た事は正しかったと思います」

 ――そう言いながら、河原の手はわずかに震えていた。デュエルディスクも力も持ち得ない……あの場に立つ資格すらなかった自分を、悔いている様だった。
 そんな彼の曇りに気づいた梨沙が、励ましの言葉を贈る。

「ほら、河原さん。河原さんが言ったんですよ?前向きに考えましょうって!」

「そんな無力な私でも、梨沙さんが苦しいと感じている事を聞くことぐらいは出来ます」

 河原はその励ましを遮るかのように、真っすぐ梨沙を見つめ言葉を返した。瞳の奥へ潜む揺らぎに、そっと触れるように。虚を突かれた梨沙は、咄嗟に返答出来ず短い沈黙を生み出す。

「……」

 河原はこの場で唯一、実験の運営側に属していた人間だ。実験そのものを中止させる為に行動していたが、今となっては守るべき者達に守って貰わなければ瞬く間に死んでしまう貧弱な地位にまでその身を落としている。梨沙を含めた被験者達には、罪悪感でいっぱいだった。だが、穂香に頼られた事……そして梨沙の希望を見出す力強さにも力を貰ったのだ。
 だからこそ、河原は出来る事をする。強くあろうとする少女の悲鳴に耳を貸す事が、もし彼女の救いになるのならば――

「ここには私と梨沙さんしかいません。後ろ向きなあなたの言葉に影響を受ける人はいません」

「あ、あはは……言ってることが逆転してませんか?後ろ向きな事を言わせようとしてるんですか?」

「そうです。周りを引っ張っていこうとする梨沙さんは、弱音なんて易々と口に出来なくなっているはずです。……もっと早くに気づければよかったのですが、あなたの強さに私も影響された1人でしたから」

「強くなんか、ないですよ……」

 消え入りそうに呟く梨沙。静かに首を横に振りながら、河原は梨沙の強さを今一度言葉にする。

「梨沙さんは強いお人です。これだけ、絶望的な状況を前にしても希望を見失わない。そして、その力強さに周りの人は力を貰えるんです」

 外に出ても人間には戻れない……。そんな絶望を前にしても立ち上がる梨沙は、紛う事なく強い人間だ。だが、弱さを見せないことが、強さに変換される訳ではない。それは、彼女に責任と孤独を背負わせる枷にもなり得るのだ。

「どうしたんですか、河原さん……?」

 河原の真っ直ぐな言葉に梨沙は少し戸惑い、疑問を投げてしまう。しかし、戸惑いながらも、河原が自分の為に話してくれているのは、十分に伝わっていた。

「……さっき、梨沙さんが何かを言いかけた時、無意識に助けを求めていたように見えました。あなたはいつも笑顔で前を向いているけれど、あの瞬間……心の奥が揺れていた気がしたんです」

 梨沙は目を伏せる。図星を突かれたような感覚が、胸の奥に静かに広がっていく。

「私は……力にはなれないかもしれません。でも、大人として、あなたの言葉を受け止めることくらいはできます。もし、少しでも吐き出したいことがあるなら……聞かせてください」

 暫しの間、梨沙は沈黙と共に考える。その瞳の揺らめきは、動揺と悲痛な心の内が透けている様だった。
 
「…………少しだけ、思っただけなんです。こうやって、痛いのも感じなくなって行って……本当にロボットみたいだなって……」

「……」

 河原は、わずかに息を詰める。彼女の口にした言葉は自分自身がかつて彼女へ告げた……外に出る事で発生し得るリスクの1つであった。彼女は痛みを感じなくなっている事で、自分を見失いかけてしまっているのかもしれない。

「みんなの前では覚悟してるって言ったし、私の中で覚悟はしているつもりです。でも、こんな傷だらけでも笑ってられるのは、やっぱり人間じゃないのかなって……」

 自らの歪んだ左足を見ながら力なく笑う梨沙。彼女の力のない笑みは、まるでその傷だらけの足が自分のモノではない他人事であるかの様な雰囲気さえ感じられた。河原は、その不安定になった彼女を励ます様に彼女の目を真っ直ぐに見据えながら力を込めた言葉を返す。

「そうやって悩んでいる事こそが、人間である証拠ですよ。もちろん、悩みたくて悩んでいる事ではないと思いますが……」

「……ありがとうございます。考えても仕方ない事って分かってるんですけどね。ミアちゃんとのデュエルも痛くないお陰で集中出来たと思いますから……」

 言葉を濁した梨沙。彼女の心に棘を残している事。それは、傷だらけでも笑う自分の姿を見て、ワルトナーが何を思っただろうかという事だ。デュエル中は、ワルトナーの口ぶりからは、父親を取られたくないという反発さが滲み出ていた。だが、そんな彼女の前で傷だらけでありながら笑う自分の姿は恐怖そのものではなかったのか?デュエルに集中出来たからこそ、気づけなかった……。むしろ気づけない事がどれ程におかしな事であるのかさえも、自分は見失っているのではないか?
 そんな内より沸き立った恐怖心が、梨沙の心を揺らした。その心の揺れを鎮める様に河原はゆっくりと彼女の気持ちへ寄り添おうとする。

「……考えてしまうのは人として当たり前の事ですよ。大きな怪我をしても、痛みを感じないというのは……私が想像するよりもずっと不安が大きい事と思います。それでも、梨沙さんが前を向き続けようとする姿に私も力を貰っているんです」

 河原の励ましの言葉に梨沙の微笑みに活力がほんの少しだけ戻っていく。

「そう……言って貰えると私も嬉しいですね」

 ふぅっと息を吐き出しながら目を閉じる梨沙。そして、ゆっくりと吸い込んだ空気で肺を満たし、気持ちを切り替えていこうとする。

「泣き言なんて口にしたら、希望そのものが遠ざかってしまう気がして……不安な気持ちを無理やり振り払おうとしてました。でも、無理やり笑うのも……少し苦しかったのかもしれません」

「どうするべきなのか……本当に難しい事です。無理して笑う必要はない、なんて言うのも一概に言い切れないでしょうから」

 重苦しい表情を浮かべる河原。本当は無理して笑わなくてもいいと言ってあげたかったのだ。でも──その笑顔に何度救われたかを、彼自身が知っていた。それは彼だけじゃない。絶望の中で、彼女が見せる前向きさは仲間たちの灯でもあった。だから、無理するなと否定しきれない。ましてや、無理をしなければ彼女が追い求めるか細い希望にも届かないかもしれないのだ……。
 かける言葉に迷う河原に対し、梨沙は再び柔らかな笑みを浮かべる。河原の目には、その笑みに滲んでいた不穏さが、ほんの少しだけ和らいでいるように映った。

「それでも、デュエルの時は無理やりにでも楽しもうと思ってます。それが、アリスさんから教えて貰ったデュエルを悪用するこの実験に対する反抗ですから!」

 彼女が前を向くのは、自身の犯した罪と失われた大切な命を裏切らない為でもあった。その上で、理不尽を強いるこの実験に、“自分のエゴ”だと分かっていても、彼女は迷わず立ち向かっていく。そうする事で、背負った物と自分の気持ちに折り合いをつけ、この実験という狂気へと抗い続ける事が出来た。
 力の込められたその言葉に河原は、小さな驚きを瞳に滲みませながら改めて思う。この少女は本当に、ただ強いだけじゃない――その強さを与えた誰かの存在も彼女を形作っているのだと。

「やはり、梨沙さんは強いお方ですね」

「強い……って事になるんですかね?ただ嫌な事を何とかしたいだけですよ」

 梨沙は口元に残った血の跡と水気を指で拭い、河原と今一度目線を合わせる。

「ありがとうございます。河原さんに話せて、少しだけスッキリした気がします」

「少しでもお役に立てたのなら幸いです。さ、今は傷の手当てを優先しましょう」

 河原は用意された医療器具を手に淡々と処置を進め、足のギプス固定とバンド装着の処置を終えた。そうして、必要な処置を終えた梨沙が、ゴシックなドレスを再び着直し河原へ礼を口にする。

「河原さんありがとうございました。これで、たぶん大丈夫……ですかね?」

「《人体スキャン》の結果を見る限りではそうなりますね。申し訳ない、福原さんが居れば傷の具合も細かく見て貰えたかと思いますが……」

「いえ、助かりましたよ!さすがに1人では手当できなかったと思いますから」

 治療こそ終えたものの、梨沙の身体的機能は著しく低下している。砕け捻じ曲がった左足もそうだが、特に内臓へのダメージなど、現実世界では薬を飲んだだけで完治するような代物ではない。拭いきれない不安を顔に浮かべながらも、河原は覚悟を決める様に目を閉じる。

「ここの薬剤が異常な効力を持っているとは言え、無理は禁物ですよ。現実世界なら即入院に相当するはずですから」

「分かりました……。移動はまたスペクターにお願いしないとかな」

 《盤外召喚》に必要となるモンスターをデッキから見繕っているそのタイミングで、フロア内へアナウンスが鳴り響いた。

ピンポンパンポーン


【ブルーフロアにて、クラスアップが行われました。新たにクラスⅢへと就任した被験者を皆様で歓迎いたしましょう。】 

「このアナウンスは……!」

 ブルーフロアでのクラスアップが行われた事を告げるアナウンス。すぐに梨沙は通信用の機械を取り出すと、ランプが点灯していた。

「近久さん達も無事にブルーフロアに到着した様ですね」

「はい!さっそく翔君に連絡しましょう」

 あらかじめ決めておいた連絡先である白神の番号をデュエルディスクへ入力していく梨沙。
 しかし、数度のコール音の後――

   *****
通話が正常に行われませんでした。
   *****

 と、画面に表示されてしまった。

「あれ……翔君に繋がらない……?」

 ほんの少しだけ嫌な予感が過った梨沙だが、今度は近久の番号を入力し通信を試みる。すると、1度のコール音が響いてすぐに通信が正常に機能した。

「梨沙?梨沙よね?」

 デュエルディスク越しに近久の声が聞こえてきた。

「はい、私です。近久さん、無事にブルーフロアに到着したんですね!」

 明るさを交えた梨沙の声に反して、近久の声色はどうにも暗い。

「うん……ウチと穂香は到着したよ。怪我とかもなく。穂香は疲れたみたいで、今フロアのソファで横になってる」

「穂香ちゃんも無事なんですね。良かったです!
……ところで、翔君は……?」

 穂香が無事である事も知れてほっとしたのも束の間……先程連絡がつかなかった白神の名が近久から上がっていない事に疑問を抱く。

「翔の事は、ウチにも分からないの……」

 ディスク越しに告げられたのは、同行していたはずの白神の所在を近久も知らないといった返答であった。

「ど、どういう事ですか……!?」

 梨沙は驚きと共に食い気味にその意味を問いただす。

「ブルーフロアに向かってる途中で、ウチが誰かに襲われたみたいなんだ。それを、翔が庇ってくれて……」

「翔君が庇って……そっか……」

 自分の為にしか行動しないと公言していた白神が、襲撃された近久を庇う行動をしたこと。彼の根底にある優しい部分が変わっていなかった事に安堵しながらも、彼に連絡がつかなかった事の不安は拭い切れない。不安と共に感じたのは、近久の口ぶりに対する違和感。彼女の口ぶりは、自分事でありながらまるで又聞きしたかのうような物言いをしていたからだ。

「翔君がその後どうなったか、まだ分からないんですね。でも、近久さんが襲われたのに近久さんもよく分かってない様な話し方をしてませんでしたか?襲われたみたいって、どういう意味なんでしょう……」

「なんて、言ったらいいんだろ……。翔が言うには、その場には確かに誰も居なかったみたいなんだよ。でも、翔はウチを庇ってデュエルを挑まれてた……。ウチにも、何が何だか……」

 彼女が口にする状況の不可解さは、伝え聞いただけの梨沙では、到底解明など出来なかった。すると、河原が口を開き可能性を示唆する。

「何らかの手段を用いて遠隔でデュエルを行なっていたのかもしれませんね」

「そんな方法……」

 あり得ない……とは到底言い切れない程にこの実験での理不尽はあまりにも多い。対戦相手が目の前に居らずともデュエルが出来るなどという無法も、何かしら条件を満たせば叶ってしまうのかもしれない。

「さっき翔君に連絡してみたんですけど、繋がらなかったんです……。もしかして、まだその誰かとデュエルしてるという事でしょうか?」

「かもしれない……。でも、きっと翔の事だから無事だとは思うけどね。
というより、そうでなきゃ困る」

 自らにも言い聞かせている様に少し捲くし気味に話した近久。梨沙も、不安こそあれど翔の実力はよく分かっているつもりだ。

「そうですね。さっきのアナウンスで近久さん達がブルーフロアに到着した事は、翔君も分かってると思います。また近久さんに連絡が入ったら、私にも連絡してください」

「うん、分かったよ。それで、そっちはどうなの?みんな無事?」

「それが、渚さんと久能木さんと別行動する事になってしまって……。まだ2人とは合流出来てないんです」

「渚と学か……じゃぁ河原さんは一緒なのね」

 問いに端的に答えるべく河原が身を乗り出し、デュエルディスクに近づいて喋る。

「皆さんのお陰で、なんとか無事です」

「近久さんとも連絡が取れましたし、渚さん達にもこれから連絡してみようと思ってます」

「分かった。もし連絡がついたらウチにも連絡入れるように言っといて」

「はい!これからの話は、まずみんなの無事が分かってからにしましょう。私達も、お父さんからまだ話を聞けていませんから」

「ん、分かったよ梨沙」

 そうして通信を終えようと通信終了のボタンへと指を伸ばした。指先が触れる寸前、通信が終えられようとしたその時、「ねぇ……」とディスクから近久のか細い声が放たれる。

「はい?どうしました近久さん」

 まだ何か共有しておくべき話があったのかと、梨沙が聞き直す。通信の向こう側で一瞬の沈黙を開けて、近久が梨沙に問い掛けてきた。

「…………萩峯って人……知ってる?」

「萩峯さん……?」

 近久から問われたが、梨沙は咄嗟に誰の事を話しているのか理解出来なかった。それを察して、近久が萩峯の特徴を添える。

「なんか……エンタメとか凄い口にしてた人なんだけど」

「あっ……!」

 名前だけではすぐに記憶と結びつかなかった梨沙だったが、エンタメという文言を受け、記憶の中で名前と人が一致する。シルクハットにペストマスクを被ったマジシャンの様な男の姿が頭に浮かぶ。

「思い出しました。マスクを着けてる人ですよね。……えっと、その人がどうしたんですか?」

「さっき、その人に会って……梨沙を探してるって言ってたから」

 小さく言い淀ませながら近久はそう口にした。その瞬間、ゾクリと梨沙の背筋を寒気が走る。記憶の中の萩峯は、エンタメと称しながら相手を殺す事を目的としていた人間だ。1度は向こうから手を引いてくれたものの、自分を探しているということは自分を殺そうと目論んでいる事に他ならない。

「梨沙は、萩峯とデュエルしたのよね?」

「そう、ですね……。穂香ちゃんを連れて動いてる時に突然デュエルを挑まれました。デュエルに勝つ事は出来ましたが、まだデュエルディスクを奪うなんて事を思いついてない時だったので……。
と、というより2人とも大丈夫だったんですか!?その人に会ったって事はデュエルを挑まれたりしたんじゃ……」

 デュエルこそしたが、1度会っただけの萩峯の事を詳しく知っている訳ではない。しかし……彼もまた、無差別的にデュエルを仕掛けるタイプの人間である事は梨沙も把握している。あまりにも近久が平然と話題に挙げた事で、失念していたその危険性に気づいた梨沙が、慌てて問いかける。
 その問いに、近久が乾いた声で静かに答えた。

「安心していいよ……。もう、梨沙が襲われる事はないから……」
 
「それって……どういうことですか?」

「あいつは……ウチが殺した……から」

 近久が震わせながら発した言葉に梨沙は驚き、すぐに返事を返せなかった。

「人が死ぬのがエンタメとか……訳、分かんなかった。それでも、あいつもウチみたいに止まれなくなって、暴走してるんじゃないかって思って!説得しようとしたんだ……。でも、見逃したら穂香の事……殺すなんて言われて……ウチは……」

 溢れた水が止まらなくなったように、近久は心の内を吐き出し続ける。

「近久さん……」

「ウチは……!梨沙みたいになれないよ……誰かを助けたいって思っても、結局殺しちゃった……。あいつは梨沙とデュエルしてたって言ってた。てことは、梨沙はあいつの事も殺さなかったんだよね。梨沙が助けた人をウチは……ウチ……が……」

「近久さん!!!」

 大きな声をあげた梨沙。彼女から呼ばれた事で我に返ったのか、近久がディスク越しに謝罪を始めた。

「ご、ごめん。と、とにかくもう萩峯って人には襲われないよって事を伝えたかっただけだから……じゃぁ――
 
 動揺を隠しきれず、気まずそうに通信を切り上げようとする近久に今度は梨沙から言葉を投げる。

「近久さんが萩峯さんを殺してくれなかったら、穂香ちゃんが殺されていたかもしれないんです」

「え……」

 通信の向こうから近久の困惑の滲んだ声が漏れ聞こえた。

「そもそも私が萩峯さんの事を何とか出来てれば、近久さんと穂香ちゃんを襲う様な事もなかったかもしれません。極論、私があの人を生かしたりせず殺していれば、他の誰かを襲う様な事はなかったんですから」

「梨沙、ごめん……って。ウチ、そんな事を梨沙に言わせたかった訳じゃないから……」

 声のトーンが一層下がっていく近久にも構わず、梨沙は言葉を続けていく。

「私が言いたいのは、こんな実験の中で何が正しいのかなんて分からないって事なんです。私がデュエルで人を殺したくないのは、決してそれが正しいと思っているからじゃありません。それが嫌なだけです。私のエゴなんです。だから、その選択のせいで、殺さなかった人が別の誰かを殺してしまうかもしれません。
私が萩峯さんを殺さなかったから、2人を危険に晒した事は否定しきれないんですよ」

「それは、そうなのかもしれないけど……。でも、梨沙は……」

「近久さんは萩峯さんを殺してでも、穂香ちゃんを守ってくれたんです。私の記憶の限り、萩峯さんと分かり合える気はあんまりしません。もし私がそこに居ても、同じ選択をしたかもしれないんです……」

 近久の声がどんどん弱弱しくなり、その声色に涙も混ざっているようにも感じられた。

「私がこんな事言っても……近久さんにとって気休めにもならないかもしれません。でも、穂香ちゃんを守ってくれたのは紛れもなく近久さんなんだよ……!」

「……!」

 鼻を啜るような音の後、しばらくの沈黙が流れた。その沈黙を破る様に、近久が静かに呟く。

「梨沙、ありがとう……。
少し、気が楽になった気がする。……ごめんね、梨沙に頼ってばっかで」

「気にしないでください。それに、頼ってるのは私も同じです。翔君が居ないなら、なおさら穂香ちゃんを守れるのは近久さんしかいません……頼りにしてますから」

 微笑みを混ぜ込んだ声で近久へ激励を送った梨沙。それを受け取った近久の声色に活力が戻ったのを確認した事で、2人の通信が終えられた。

「彼女も、かなり精神的に来ている様でしたね……」

 河原の落とした言葉に梨沙も静かに頷く。

「それでも、近久さんは前に進もうとしてくれてます。私が出来るのは信じる事だけです……」

「そうですね……」

 通信を終えたディスクの画面へ梨沙が視線を戻した瞬間、今度は通信が入る。その通信相手の番号は、渚の物であった。

「……渚さんから!」

 すぐさま通信を開始し、渚の状況を尋ねる。

「渚さん!大丈夫ですか!?」

「あぁ〜梨沙君。ボクは無事さ〜。梨沙君も、グリーンフロアに到着している様で何よりだよ」

 通信越しの渚の声は、妙に明るく響いていた様にも感じられる。きっと、音質のせいではないのだろう。言葉を間延びさせながら答える渚に、梨沙は何とも言えない違和感を覚える。しかし、彼女の安否が判明した事で、梨沙は胸を撫で下ろした。

「渚さんも無事でよかったです。今はどこに?」

「悪いんだけど、レッドフロアまで逃げ帰らせてもらってる」

 渚と別行動になった原因は、渚に話があると引き留めたスーツ姿の男性の存在だ。あくまで穏便な話し合いで済ませるという名目だったが、彼の喋りや雰囲気は実に威圧的なものだった。そんな彼との話し合いの後に、渚から発せられた逃げ帰るという発言は聞き捨てならない。
 
「逃げ帰ったって、まさかさっきの人に襲われたんですか……?」

 拭えぬ不安を纏わせながら問いかける梨沙に対し、渚は実に軽やかな口調で答えて見せる。

「いや、彼とは穏便に話を終えて、久能木君とも合流出来たんだが……その後が問題でね〜」

「久能木さんとも合流したんですね。その後……って言うのは?」

 久能木と合流出来たという情報にほっとする間もなく、梨沙の意識が向けられたのは含みを持たされた”その後”の出来事についてだ。

「久能木君がね〜。死んだんだ。ボクが見捨ててしまったからね〜」


 死んだ?
 

 梨沙の思考が、言葉の意味を追いかけるよりも先に制止する。
 それは、呆気なく言い放たれた。他者の死を語る者とは思えないほどに、渚の口ぶりや雰囲気はへらへらとしている。突然の久能木の死に対する告白もすぐには理解できなかったが、何よりも梨沙の思考を止めたのは——渚のおかしな態度だった。渚と久能木の関係を詳しく知らない梨沙から見ても、彼女ら2人のこれまでのやり取りには確かな信頼が垣間見えていた。だからこそ、渚の言葉に湧き上がるのは「何故?」という疑問だけ。久能木が死んだこと。そして、見捨てたと語る渚。その2つを、無神経に並べ立てる渚の姿に、梨沙の中で疑問と不信感が募っていく。高鳴る鼓動が苦しく、梨沙はつい自分の胸元を抑えた。聞かずにはいられない。彼女が何を考えてそんな事を口にしたのかを。

「渚……さん?何言って?」

 河原も、梨沙と同じ違和感を覚えていたのだろう。梨沙に続くように、渚へ問いかけた。

「見捨てたとは……どういう事ですか」

 真剣な声色の2人の問いに対しても、渚の浮ついた態度は変わらない。

「観測者と遭遇しちゃってね。それで、そいつを捕えれば脱出に有力な情報を吐かせられると思ったんだ~。最悪、奴を人質にすれば脱出への可能性も開けるかと思って~久能木君と2人がかりでデュエルを挑んだんだよ。けど、負けた。
だから……久能木君だけ置いて、ボクはその場から逃げたという訳さ……」

 そう言いながら通信先からは、何かを飲んでいるようなゴクゴクとした嚥下音が聞こえてきた。それを聞いた瞬間、何故久能木が死ぬことになったのか……?
 それよりも真っ先に聞くべき事が意識せず口から零れ出た。梨沙の脳裏で酒を片手に話をする渚の姿が浮かび、その軽薄さに精神が逆撫でられてしまったから――。

「なんで……お酒飲んでるんですか……。久能木さんが死んだのに……なんでそんな……」

 信じられないという思いが、握りしめた拳と同じように声にも滲んでいた。そんな彼女に対して、ディスク越しに冷たい声が届けられる。

「そんなの……飲まなきゃやってられないからに決まってるじゃないか」

 冷めた声色で渚がそう返す。すると、すぐに乾いた笑い声が漏れると話を続けていく。

「ははっ……いやいや、ボクは梨沙君と喧嘩したい訳じゃないんだ。久能木君が死んだ事をどうでもいいなんて思ってる訳でもないよ」

 本音を隠す様に放たれた小さな笑い声。その笑いはどこか自嘲的でもあり、自らの動揺を隠そうとしてるかのように梨沙は感じられた。渚と久能木は、長い間この実験内で行動を共にしていた。そんな人を失って、ショックを受けないはずがないのだ。そこで、梨沙も気づかされる。渚が酒を呷っているのは、久能木の死に無頓着であるからなどではない。あれは、感情を押し殺すための手段。自分を保つための、彼女なりの鎮痛剤だったに違いない。

「……渚さん、ごめんなさい。辛いに、決まってますよね……」
 
 反射的に嫌悪の言葉を渚に向けて放ってしまった事を梨沙は悔いる。梨沙の胸に、渚の軽薄さに見えたものの裏にある痛みが……じわりと染み込んでいく。

「理解に感謝するよ。今、ボクがすべき事は、彼の死を無駄にしない事だろう?梨沙君達へ観測者についての情報を伝える。もし、遭遇した時には役立てて欲しいんだ」

 渚は淡々と言葉を紡いでいくと、遭遇した観測者についての話を始めた。

「さっきも言った通り、観測者を自称する人間がボクらの前に現れてね。情報を引き出そうと久能木君と2人がかりでデュエルを挑んだが、負けてしまったんだ」

「観測者……ですか……?」

「あぁ。名前は西澤 麻世理。河原さんと同じく白衣を着た黒髪の女性だ。違ったのはデュエルディスクを装着していた事と、左目が特異な緑色に輝いていた点だね」

 告げられた名前に対して河原が、ピクリと反応を見せる。

「西澤……?」

 梨沙の隣で、明らかに名前へ反応している河原に梨沙も質問する。

「河原さん?もしかして、知っている人なんですか?」

「彼女は……メモリアリティで行われる決闘実験を取り仕切る部門の、責任者です。私も開発部門の責任者として、よく彼女とはやり取りを交わしていました」

「責任者……」

 責任者——。
 その言葉が梨沙の胸に重く沈んだ。観測者と対峙したと渚から聞かされていたが、その正体がまさか実験を取り仕切る責任者とまでは思わなかったからだ。実験の全貌を知り外部から干渉できるはずの立場の人間が、わざわざこの世界に足を踏み入れている事。その事実が、何よりも恐ろしく、震え出しそうになった左腕を反対の手で抑えた。
 ディスクの向こうからは、話が早いと言わんばかりに渚が河原へ話を振る。

「なるほど、河原さんなら奴について詳しそうだね」

 渚の期待に反して、河原は無意識に小さく首を振りながら答える。

「……彼女の人やなりに詳しいとまでは言えません。基本的に、私の所属していた開発部門に対して彼女の属する試験部門から結果をまとめたレポートが送られて来ます。それらを受けて、ソリッドビジョンのシステム改善、改修をするという流ればかりでしたからね。しかし、責任者自ら実験に参加するなんて……」

 河原は責任者であるはずの西澤自らが実験へと参加している事に、小さく動揺している様子だった。梨沙もまた、わざわざ観測者自らこの電脳世界へとやって来る理由が分からないでいる。河原にしたって、この実験内で人格を殺す事による脳死を目論んで送り込まれていたはずだった。それはすなわち、観測者がデュエルディスクを所持しデュエル出来る状態とは言え、こちらの世界で死 ねば現実世界でも脳死してしまうはずだからだ。ましては、実験の責任者ともなればなおさら疑惑が深まるばかりだった。

「なんで……死ぬかもしれないリスクを負ってまでこの実験に来る必要があったんでしょう?」

「大よその推測は奴との会話からある程度立てられた。奴の1番の目的は、河原さんの排除だろうね」

「河原さんを……」

 観測者側としては、河原が実験から逃れる可能性など考えていないだろう。今でこそ、梨沙達と協力している事で生き永らえているものの、デュエルの出来ない河原にとってこの環境はあまりに過酷だ。その上で、観測者達は河原を長生きさせるつもりがないという事が伝わり、梨沙の視線が一瞬だけ伏せられる。

「元々、誰かしらに河原さんの始末を指示していたみたいなんだけど、そいつは別の誰かと交戦中……。つまりデュエルをしているから、河原さんの始末に動けなくなっていた様だ。だから、観測者自らこの実験に来て河原さんの始末に動き出したという事だろうね」

「……恐らく、その指示を与えていた被験者とは朱猟 響の事でしょう」

 己の知る情報から、観測者が河原殺 害の指示を与えられていた人物を朱猟と断定する河原。河原の口から出た名に、梨沙の心臓がひとつ跳ねた。あの狂った男が観測者と繋がっていた――その可能性が、思考の奥に冷たい恐怖を沈めていく。

「朱猟……あの人が観測者から指示を受けていた!?」

「えぇ……。実際、私と共に行動してくれた同僚は、私よりも先にここへ送り込まれて彼に無残にも殺されました……」

 河原の表情には、悔しさと悲しみが混ぜ込まれていく。梨沙はその顔を見つめながら、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。彼の言葉の裏にある喪失が、静かに空気を重くしていくのだ。

「という事は、あの男は実験側の人間の指示を受けていたというんですか河原さん?ボクが集めた情報の中で、あいつは誰かの命令をすんなりと聞くような人間とは到底思えないんだが……」

 河原の話から、朱猟と観測者側との繋がりを仮定に話す渚。梨沙にも、あの男が誰かの命令に従う姿は想像できなかった。己の快楽を満たす為、真っ先にブラックフロアを訪れ、梨沙の死にたくないという心からの悲鳴に狂った笑い声を上げ続けていたのだ。他者の悲鳴に酔うようなその目――あれは、梨沙でさえ和解の道を模索する気が起きない程だった。

「私も彼について詳しい訳ではありません……。ですが、あの人間の行動指針は己の快楽のはずです。その快楽の方向性と観測者の指示とが合致すればある程度の命令を与える事は可能なのかもしれません。現に……私の同僚達は西澤の指示通り彼によって残虐に殺されてしまいました。つまり、邪魔な人間を排除する為の殺し屋としての運用であれば……十分可能に思えます」

「なるほどね……。確かに、他者をいたぶれるとなればあいつなら喜んで行きそうだ。それに、あいつが扱うカードやその出力の高さも、観測者側と繋がっていると考えればしっくり来るか……」

 快楽と命令の一致。その言葉に、梨沙は思わず喉元がざらつくような不快感を覚えた。命令で人を殺すことが、快楽と結びつく――そんな現実は、あまりに歪んでいる。しかし、朱猟と観測者との繋がりとして、筋は通っているのだろう。相手の悲鳴を聞きたい朱猟に、その獲物を提供するだけで勝手に殺してくれるのであれば、観測者側としても便利な駒である。これらの話から、渚は河原の話にある程度の納得を見せる。梨沙も理解は出来ずとも理屈には納得していた。
 ……だが、どうしても腑に落ちない。河原を殺すだけなら、もっと安全で効率的な手段がいくらでもあるはずだ。それなのに、わざわざ“責任者”がこの場に現れた事――その事実が、梨沙の思考に小さく棘のように刺さっていた。

「でも、いくら河原さんがすぐに殺せる状況じゃないからって、わざわざ責任者がここに来る必要はあるんですか?それこそ、ここに居る他の人に適当な報酬と一緒に河原さんの写真でも見せて殺しを依頼した方が安全のはずです。自分が死ぬかもしれないリスクを負ってまで、観測者がここに来る必要は……」

 一見理にかなっていた観測者の目的だが、河原の殺 害だけであれば他にいくらでもやりようはあるはずなのだ。朱猟以外の人間へ命令や、報酬を与えるだけでも簡単だろう。例え、実験側から誰かを送り込む必要があったとしても、責任者など上の立場の人間が来る必要まであっただろうか?

「梨沙君の言う通りさ。あくまで河原さんを始末しに来たというのは、表面上の理由だろう」

 通信越しに届いた渚の声は、どこか冷めていた。その言葉に、梨沙は一瞬だけ眉を寄せる。表面上の理由――その言い回しが、何かもっと深い闇を示しているように思え聞き返す。

「どういうことですか?」

「西澤の本質も、ここに居る狂人となんら変わりないって事さ。話が通じなくて、自分の利益の為なら他者を踏み躙る事を辞さない獣とね……。奴と少し話したが、何やらボクと久能木君とのデュエルを通じて、ボクらがどんな反応を見せるのかを目の前で観察したかったんだそうだ」

 責任者――梨沙はその肩書きに、どこか理性や倫理を期待していた部分があった。だが、渚の言葉がそれを容赦なく打ち砕く。人同士がデュエルを通じて傷つけ合い、殺し合う。そんな凄惨な光景を嬉々として観察しようとする西澤という人間に、梨沙の胸の奥がざわついた。喉元に冷たい嫌悪が絡みつき、腹の奥では怒りが熱を帯びて膨れ上がっていく。梨沙の思考が、その温度差に軋む。

「か、観察……ですか?でも、そんな事をしてもし死んでしまったらどうするんですか?河原さんをこの世界で殺そうとしているって事は、人格をコピーされた私達じゃなくてもこの世界で死んだら、外の世界でも実質的には死ぬじゃないですか」

「つまり、まともな思考回路をしてないってことさ。自分の生き死により、奴の中で重きが置かれているのはこの実験を観察する事。その観察の為なら、絶対的に安全な観測者と言う立場さえも取り払ってしまえるほどにね」
 
「……」

 画面越しでは足りない――その欲望の異常さに、梨沙は言葉を失う。どれだけの狂気があれば、命を賭してまで他者の苦痛を見たいと願えるのか。

「まぁ、逆に安心したよ。こんな実験を真っ当な感性でやってる方がよっぽど怖い。背景に、ちゃんと狂った奴がいたってことさ」

 渚の言葉は皮肉めいていた。だが、その裏にある冷静な諦めが、梨沙の胸に静かに響く。狂った実験には、狂った人間が関わっている――それは、ある意味で当然とも言える構図である。納得はした。けれど、怒りも嫌悪も、梨沙の胸の奥で静かに燻り続けていた。梨沙は渚の言葉に息を吐き、静かに同調を示す。

「そう、ですね……。やってる事と人間性にギャップがあったら、確かに混乱しそうです……」

 梨沙の言葉に、場の空気が一瞬だけ静まる。
 その沈黙を破るべく口を開いたのは、河原だった。声の調子は冷静で、感情を抑えた問いかけに思えた。

「私の排除を名目として、西澤はこの実験に参加している状態にある……そう言う事ですね?」

 河原の意図を察したように、ディスク越しに渚が答える。そして、西澤と戦った事で得られた情報を梨沙達に伝えようとしていく。

「そうなりますね。表面上の目的とは言え、現状河原さんと一緒に居るのは梨沙君だ。奴のデッキの情報はきっと役に立つはずだよ。最も、奴が1つのデッキだけを使って来るとは限らない。その点を考慮した上で聞いて欲しい」

「はい!渚さんと久能木さんが手に入れてくれた情報……無駄になんかしません」

 真っすぐそう伝える梨沙に対して、ディスク越しに渚が零したふっという息の音が入り込む。

「久能木君を失ったのは、ボクの力足らずに他ならない……。だけど、君と協力関係を結んだからこそ、この新鮮な情報を生かす事が出来るかもしれないよ」

 そして渚の口から、西澤とのデュエルの詳細が語られ始める。
 狂気の実験――その主犯とも言える人間の用いる、人間心理をも計算に入れた冷徹な戦術構造。梨沙は、言葉のひとつひとつを逃すまいと耳を澄ませながら、その戦術の奥底へと足を踏み入れていく。
 それは、ただの情報ではない。久能木の命を代償に得られた、渚の痛みと覚悟が宿る“記録”だった――。
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グレイ
久々の更新お疲れ様です。

激戦を終えての情報整理、そして追悼フェイズ。痛みを感じないただ1人である梨沙自身、それについて思うところがないはずがないんですよね。
今までは頼りない印象だった河原さんがここでメンタルケア要員として大活躍。やはり大人としての地に足付いた言動が素敵ですね。 (2025-08-27 17:59)
ランペル
グレイさん遅くなりましたが閲覧及びコメントありがとうございます!

各々の考えとかを把握しなきゃなのと文字数がかさんじゃってるのもありまして、中々遅筆となってる現状ですねぇ。ひとまず、梨沙一行全ての視点で一通りのデュエルが終了したという事で、情報共有回となりました。
梨沙の痛覚消失は、一時発狂にまで追い込まれたものでしたが、白神の助力もあり前向きな考え方が出来る様になりました。しかし、ワルトナーとのデュエルで痛覚の飛んだ自身の姿が相手に恐怖を与えていたのではないか?という点に気づき、精神的な負荷が再び爆発しそうになった形。
仰るように、河原はまともな思考回路+思いやりを備えた大人という割と貴重な存在なので、梨沙としてもかなり精神的に助けられた部分があったように思えますます。 (2025-09-18 02:55)

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